OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

58.男性と女性の質

<OSHOの講話より>  

男性的な質は、女性的な質がそうであるように、ふたつの方向性を持ち得る。男性的なマインドは攻撃的、暴力的、破壊的になり得る・・・それは可能性のひとつに過ぎない。男達はそれをやって来たし、その為に人類は大いに苦しんで来た。 

男達が、この男性的な質の否定的な側面を表に出そうとすると、女達も彼らと調子を合わせようとして、自然と否定的な女性的質の方へと移って行く。そうでないと裂け目が大きくなり過ぎて、橋渡しすることが出来なくなるからだ。 

女性的な質が否定的になると、それは不活発に、無気力に、冷淡になる。否定的な男性は、否定的な女性としか繋がりを持つことが出来ない。 

だが、肯定的な側面というものもある。否定性だけしかないということは決してないし、どんな否定性にも肯定的な側面がある。暗い雲には銀の縁取りがあるし、夜の後には必ず夜明けがやって来る。 

肯定的な男性的質は、物事を率先し、創造的で、冒険心に富んでいる。いずれも同じ質で、ただ異なった地平を動いているに過ぎない。否定的な男性的マインドは破壊的になり、肯定的な男性的マインドは創造的になる。 

破壊性と創造性は、ふたつの別ものではなくて、ひとつのエネルギーのふたつの側面だ。同じエネルギーが攻撃的にもなり得るし、同じエネルギーが率先的なものにもなり得る。

攻撃性が進取の気性になるなら、それには独自の美しさがある。暴力が冒険に、暴力が探究に、新しいもの、未知なるものの探究になるなら、それは大きな恩恵をもたらす。 

女性的な質でも同じことだ。無気力さはネガティブだが、受容性はポジティブだ。それらはよく似ているし、ほとんど同じもののように見える。無気力さと受容性とを見分けるには、ごく深い洞察力のある目が必要とされる。 

受容性はいつでも喜んで迎えようとし、待ち受けていて、そこには祈りがある。受容性は客を待つ主人、受容性は子宮だ。 

無気力さは怠惰であり、死んでいて、希望がない。何も待ち望んではいないし、何も期待してはいないし、何事も決して起こりはしない。それはすっかり無気力になっていて、ある種の無関心に陥っている。 

この無関心と無気力は有害なものだ。だが無関心になるのと同じものが、私心のなさにもなり得るが、そうなると、それは全く違った趣きを持つようになる。無関心は私心のなさと同じように見えるが、それは違う。無関心は、単に関心がないだけだ。 

私心のなさは、関心がないのとは違う・・・この超然とした態度は大きな関心、途轍もない関心を寄せてはいるのだが、一方ではそれにしがみつこうとはしない。 

それがそこにある間は楽しんでいて、その瞬間が消えて行こうとしたら、あらゆるものがいずれは消えて行くのだからと、去るものは去らせてしまう。これが私心のなさ、超然とした姿勢だ。 

無気力さは、否定的な状態だ。人はまるで泥の塊りのように横たわっている・・・成長の可能性はないし、横溢するものがないし、花開くものがない。 

だがその同じエネルギーが貯水池に、大きなエネルギーの貯水池にもなり得る・・・どこにも行かず、何もしないが、エネルギーの方はどんどん溜まって蓄えられてゆく。 

科学者が言うところでは、ある一点で量的な変化は、質的な変化になる。100度に熱せられると水は沸騰して蒸発してゆく。99度では、それはまだ沸騰してはいない。99.9度でもまだ沸騰してはいない。だが、あとほんの0.1度で、水は量子的な飛躍を遂げる。 

肯定的な女性性は無気力ではなく、いっぱいに蓄えられたエネルギーの貯水池のようだ。エネルギーが集まって来て蓄えられるに従って、それは多くの質的な変化を通り抜ける。

男性は、本当に男性的であろうとしたら、冒険心を持ち、創造的になり、人生で出来得る限りの多くのことを、率先して進めてゆかなければならない。 

女性は、本当に女性的であろうとしたら、男性の背後に控えているエネルギーの貯水池になって、その冒険が出来る限り多くのエネルギーを持ち得るようにしなければならない。

冒険が何らかのインスピレーションを持ち得るには、冒険が何らかの詩を湛え得るには、冒険的な魂が女性の中に寛ぎ、生命力に満たされ、新たに蘇ることが出来る為には、エネルギーが必要だ。一緒になって、前向きに進んでゆく男性と女性は、ひとつの全体になる。 

本当のカップルは・・・本当のカップルはごくわずかしかいない・・・お互いが相手とポジティブなやり方で結びついている。99%のカップルは否定的な形で結びついている。世界にこれほどの惨めさがあるのは、その為だ。 

繰り返そう・・・男性は男性的、女性は女性的であるべきだが、肯定的な形でそうあるべきだ。そうなれば共にあることは瞑想になり、共にあることは本当に素晴らしい冒険になる。共にあることは、日々新たな驚きをもたらす。生は、これらふたつの極の間のダンスになり、彼らは互いに助け合い、互いに滋養を与え合う。 

男だけでは、あまり遠くに行くことは出来ないし、女だけでは、単にエネルギーの貯水池としてあるだけで、如何なるダイナミックな動きも生まれて来ない。ふたりが一緒になった時、彼らはお互いに補い合うようになる。 

どちらかが一方よりも高い訳ではない。相互補足とは、どちらかが高いとか低いということでは決してなく、彼らは同等であるということだ。男が高い訳でも女が高い訳でもなく、彼らは互いに補い合っている。 

一緒になって初めて全体(ホール)になり、別々であればどちらにも可能ではなかった、聖性(ホリーネス)を創り出すことが出来る。 

エス仏陀が、クリシュナほど豊かではないように見えるのはその為であり、それは彼らが独身であるからだ。クリシュナはもっとトータルだ。その為にインドでは、クリシュナは完璧なアヴァタール、完璧な神の化身と考えられている。 

仏陀は部分的と見なされているし、マハヴィーラも神の部分的な化身と見なされているし、イエスもそう見なされている。クリシュナの中には、全体的な何かがある。 

それからもうひとつ。もしそれが、単に男性と女性の外面的な出会いに過ぎないなら、それにはそれほどの重要性はなかっただろう。それはまた、それぞれの男性と女性の存在の深みでの出会いでもあって、何故なら、男はみな内側では女でもあるし、女はみな内側では男でもあるからだ。 

外側で相手と出会って溶け合うことは、本当はこの内なる出会いを準備する為のレッスン、実験に過ぎない。人間はみな、男と女から生まれて来る。あなたの半分は父親から来ているし、あなたの半分は母親から来ている。あなたは対極にかけ離れたものの出会いだ。 

現代の心理学、特にユング派の心理学は、この男性も女性も両性的だという考え方を受け容れて、それに基盤を置いている。あなたの意識的なマインドが男性のものなら、あなたの無意識は女性的であり、その逆も言える。 

だが、この内なる出会いを起こらせることは、内なるものは目に見えないから、最初の内は難しい。まず最初は、目に見えるところからレッスンをしなくてはならない。 

この出会いとはどのようなものなのか、その体験をいくらかは得ることが出来るように、外側の男性と出会い、外側の女性と出会うがいい。そうすれば、少しずつ徐々に内側を探して、そこに同じ極性を見つけることが出来るようになる。 

内側の男性と女性が出会う日、あなたは光明を得る。その日は大いなる祝祭の日になる・・・あなたにとってだけでなく、全存在にとっても。ひとりの人が再び戻って来たのだ。無数の数えられないほどの存在の中から、ただひとりの人が到着した。 

仏陀が光明を得た時、天から花々が降り注いだと言われている。そういった話は歴史的な事実ではなく、詩的な表現なのだが、この上もなく重要な意味がある。全存在が踊ったに違いないし、歌ったに違いないし、無数の花々を降り注がせたに違いない。 

何故なら、それは稀な現象だったからだ。闇の中を手探りしていた魂が、突如として統合されて、バラバラになっていた魂が結晶化された。ひとりの人間が神になった。これは祝い喜ぶべきことだ。それは全存在にとっての祝福なのだ。 

だがいいかな、最初のレッスンは、外側でなされなければならない。 

外側の世界で女性を知らない限り・・・彼女の全ての豊かさを、彼女の全ての甘さと苦さを・・・そして外側の男性を知らない限り・・・彼の全ての美しさと全ての醜さを・・・

あなたは内なる次元に動いてゆくことが出来ない。あなたは陰と陽、シヴァとシャクティが、内側で出会うようにすることが出来ない。 

この出会いは、とても重要なもの、途轍もなく重要なものだ。何故なら、その出会いがあって初めて、そこで初めて、あなたは神になるからだ。 

OSHO,The Book of Wisdom,#8 より抜粋