OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

82.God is Nowhere、Life is Now Here.

<OSHOの講話より>                    (1989年2月3日) 

友よ。 
私はあなた方に、政治家達に気をつけるべきだと、何年にも渡って話して来ている。彼らは精神科医精神分析医の世話になるべきだ。核兵器が生まれて以来、政治家は途方もない権力を持つようになった。権力は間違いなく堕落させる・・絶対の権力は、無条件に堕落させる。それは堕落させるばかりでなく、誇大妄想をも与える。 

全ての政治家は二重人格だ。そうならざるを得ない。彼はAについて語り、Bのことをする。彼は常に、人々に見せる為のマスクを被っている。そして、彼の本当の顔は隠されたままだ。権力の座に長く留まれば留まるほど、彼がノイローゼにかかり精神分裂症になっていく可能性はより高くなる。過去においては問題はなかった。こうした政治家達も、さほど多くの危害を加えることは出来なかったからだ。だが、今日では全く違う。精神的、心理的に病んでいる1人の政治家が、美しい惑星全体を破壊し得るのだ。 

私は精神分析医と精神科医自身が、この状況に関して発表するのを待っていた。そして、その発表が今日手許に届いた。世界的に知られている2人の精神科医ジャブロー・ハシュマン博士とジュリアン・リープ博士が「ワシントン・ポスト」誌上で、「ホワイトハウス精神分析医がいるべきだ」という記事を発表したのだ。現在、大統領専属の内科医はいるが、精神分析医はいない。彼らはこう述べている。 

「この核時代に、合衆国大統領が核戦争を始めかねないという時、彼が心理的に安定しており、多幸症、躁鬱病、あるいは自殺志向に陥りやすい状態にないことを確認するべきだ」彼らはいくつかの例を引き合いに出した。「ニクソン大統領は辞職する前の数ヶ月、惨めな状態にあった。人々を避け、ひとりで長い時間散歩をした。彼は、自分がどう感じているかについて語ることを拒絶し、自分の家族からも孤絶していた。彼はよく眠ることが出来ず、4日連続で眠ることが出来なかったことがあった。彼は痛飲し、時には昼食の前でも飲んだ。 

彼は何をするか分からなくなっていた。ある瞬間は涙ぐみ、次の瞬間には何でもないことに激怒し、1時間後には有頂天になった。時折、彼は焦点が定まらないように見えた。彼は取り留めもなくしゃべり、馬鹿げた命令を出した。ある夜、彼は壁に掛っている自画像に話しかけながら、ホワイトハウス内のホールを歩いていた。彼は自殺をほのめかした」

ハーシュマンとリープはこう言う。「こうしたエピソードは、通常、おおい隠されていた。だが私達は、この現象がいかに世界的に広がっているかに気づき始めた。ロナルド・レーガンの周期的な無力症からリンドン・ジョンソンに関する最近明らかになった事実、そしてウッドロー・ウィルソンフランクリン・ルーズベルトの、大統領として職務が果たせなくなるような状態の詳細まで」 

全ての大統領・・アメリカ大統領だけでなく・・全ての首相、誰であれこの世界を破壊する力を持っている者に、精神科の主治医がついていれば、それは良い兆しだ。だがそれだけでは充分ではない。人間は肉体でもあるからだ。内科の主治医がその方面の面倒を見ることが出来る。そして人間はマインドでもある。精神科医がその面倒を見ることが出来る・・が、人間はそれ以上の何かでもある。ゆえにこの2人の精神科医、ハーシュマンとリープが提唱していることは、完璧な解決策ではない。 

世界中の大統領、首相、王はみな、瞑想の師につくべきだ。その時にのみ、私達は危険のない状態になりこの惑星は救われる。精神科医は、せいぜいマインドを正常に保つのを助けることが出来るだけだ。どちらにしてもその限界はマインドだが、人間の実在は遥かに大きい。それはマインドを超えている。その超えたるものもまた、理解されねばならない。なぜならその超えたるものこそが、真の正気を生むことが出来るからだ。その超えたるものこそが、あなたを平穏で、静寂に満ち、創造的で祝祭に満ちた存在にすることが出来る。ひとたび超えたるものの何かを知れば、あなたはもはや自殺的でなくなる。もはや殺人的でなくなる。 

もし私達がこの絶対的な必要性を、政治家達に理解させることが出来れば、核兵器は世界から消滅する。内科の主治医がいることで、彼らがきまり悪く感じたりしないように、精神科の主治医がいることにも恥ずかしさを感じる必要はない。そして彼らは、瞑想の師につくことにも恥ずかしさを感じるべきではない。こうしたことは、絶対的に必要になって来ている。 

私達が世界を生きながらえさせたいのであれば、政治家は知性的な人々、生の永遠性の秘密を知る人々、最奥の存在のエネルギー、理解、体験を伝えることの出来る人々の庇護のもとにいるべきだ。これが唯一の可能性だ。さもなければ、人類に希望はない。生きとし生けるものに希望はない。ゴータマ・ブッダや、意識の最高の高み、意識の最高の深みに到達した人々に希望はない。 

私はハーシュマン博士とリープ博士の提言に感謝する。だが私は、この提言が完全なものではないことにを彼らに知って貰いたい。なぜなら他のどの職業にもまして、精神科医は発狂しているからだ・・4倍以上だ。他のどの職業にもまして、精神科医は自殺を犯している。精神科医は他の誰にもまして、心の病に対して弱い。なぜなら、彼らは瞑想者ではないからだ。これが、私達の内なる不毛の全体だ。 

精神科医は、マインドについて知っている。だがマインドそのもの自体は、生の永遠の源泉ではない。それはいかなる瞬間にも、ノイローゼへと陥り得る。いかなる瞬間にも、誇大妄想的になり得る。ちょっとした権力で・・私は、大統領や首相の面倒を見ることになる精神科医に関しても不安だ。彼ら自身、誇大妄想的になるかもしれないからだ。彼らは、絶大なる権力を手にすることになるのだから! 

だから彼らの提言は正しい。だがそれは、大統領や首相の面倒を、また精神科医の面倒を見れる、瞑想の師に助けられねばならない。私の言っている意味が分かるかね?これは絶対に火急のことだ。誰かが発狂するまでの時間は短い。いかなる瞬間にも、地球の破壊は起こり得る。 

サニヤシンからの最初の質問: 
『私はあなたが、存在は決してジャッジ(判断)しないとおっしゃるのを聞きました。それにも関わらず、私達のマインドはジャッジでいっぱいです。これは、どこからやって来るのでしょう?こうしたこともまた、神という概念と結びついているのでしょうか?』 

存在は決してジャッジしない。人類に対する禅の偉大な貢献のひとつ、それは、あなたは目覚める為に聖者になる必要がないことだ。あなたは生のどんな角度からも、どんな次元からも目覚めることが出来る。それはあたかも、ある人は自分が殺人を犯している夢を見ており、またある人は非常に甘美な夢、自分が貧しい人々に献身している夢を見ているようなものだ。誰かは自分には非常に徳があり、聖人であるという夢を見ている。また誰かは自分が人殺しで、最低の犯罪者である夢を見ている。 

気高い夢を見ている人が先に目を覚まし、罪人や犯罪者は目覚めるのに少し時間がかかるとでも思うかね?彼らは両方とも、まさに同時に同じ方法で目を覚ます。バケツ1杯の冷たい水をかけるだけで、彼らはベッドから飛び上がるだろう。彼らが罪、あるいは徳のどちらを夢見ているかは問題ではない。 

禅の理解では・・私はそれを全面的に支持する、それは私の体験だからだ・・あなたはどこにいようと、何をしていようと目覚めることが出来る。あなたの行動、あなたの性格、あなたの個性は全く問題ではない。これは途方もない宣言だ。なぜなら全ての宗教が、あなた方に「まず、あなたは聖人にならなければならない。そうしてのみ、あなたは神の園に入ることが出来る」と言って来たからだ。 

禅は、あなたに途方もない質を与える。あなたが何をしていようとも、それは問題ではない。あなたの性格・・洗練されていようと、粗野であろうと、非文明的であろうと、それがどうあろうと問題ではない。あなたは同じ手法、すなわち瞑想によって目覚めることが出来る。直接的だ。あなたの性格、あなたの行動を何も変えることはない。そして存在は、決してジャッジしない。分けへだてなく罪人に生を与え、聖人にも生を与える。存在は、分けへだてなく愛を与える。静寂をすみずみまで降り注ぐ。 

あなたの質問はこうだ。「こうしたジャッジは、どこからやって来るのでしょう?」それは根本的に、神という虚構から生じる。だが虚構には何もすることは出来ない。その虚構が、生きている人々を雇わなければならない。それは聖職者から、教皇シャンカラチャリア、イアーン達から生じる。こうした聖職者達が、直接の根源だ。神の名において、彼らはあなたのマインドをジャッジでいっぱいにする。何も理解することもなしに、あなたはマインドの中にジャッジを持ち運んでいる。 

何かを見る瞬間、即座にジャッジが湧き起こる。あなたが薔薇を見る時、すると突然あなたはジャッジが湧き起こるのを見る。「これは美しい」と。だがあなたが「これは美しい」と言う時、ジャッジは薔薇を隠してしまう。ジャッジは、薔薇に関する過去の体験からやって来る。だが、これは新しい薔薇だ。あなたはそれに会ったことはなかった。それは地上に存在したことはなかった。それが表現されるのは最初にして最後だ。あなたは薔薇を見たことがあるかもしれない。が、これは同じ薔薇ではない。他の薔薇に関するあなたのジャッジ全ては、あなたの記憶が作り上げたことだ。 

あなたの中に、ロボットのように「これは美しい」が湧き上がって来る。あなたはその美しさを理解していない。あなたは、その美しさと実在的に直接繋がってはいない。あなたの目が全くの純粋さで、薔薇の美を歓喜しているのではない。ジャッジがやって来て、あなたは薔薇を台なしにする。ジャッジが、あなたと薔薇の間に立ちはだかる。そして、過去に自分が見た薔薇の記憶の中で迷子になってしまう。が、これはあなたが会ったことのないものだ。 

どんなジャッジも過去志向だ。そして存在は常に、今、ここだ。生は常に、今、ここだ。そして全てのジャッジは、あなたの過去の体験、教育、宗教、両親からやって来る・・彼らは死んでいるかもしれないが、あなたのマインドの中には、彼らのジャッジが持ち運ばれている。そして、それはあなたの子供達に遺産として与えられる・・幾世代に渡って、あらゆる病が遺産として受け継がれていく。 

決してジャッジしないマインドのみが、知性を持っている。なぜなら、それが現実に対する内発的な応答だからだ。私は、あなたに神を落として欲しい。私は、あなたに教典を落として欲しい。私は、あなたに両親を落として欲しい。私は、あなたに与えられたもの全てを落として欲しい・・善意からだとしても、それは問題ではない。そうした善意は、重さを持っている訳ではない。だが、あなたをジャッジに満ちた存在にする。

 

知ることなく、理解することなく、体験することなく、あなたは即座にジャッジしてしまう。ジャッジは即座にやって来る。それはあまりにも早く、もしあなたが充分に醒めていなければ、ジャッジを取り除くことは出来ない。あなたのマインドの中、あなたの記憶の倉庫の中でジャッジは待ち構えている。あなたが何かを見るやいなや、何かを聞くやいなや即座に「これは正しい、これは間違っている。これは私のマインドに即している。ゆえに私はそれに同意する」といったジャッジがやって来る。 

だがあなたが、自分とは合わないというマインドに即して同意することは、自らのマインドがより強いものになるのを助長するに過ぎない。マスターの働きは、非常に微細だ。彼はあなたのマインド全部を、徐々に取り去らなければならない。すると、ある純粋な空間がそこに存在する。そうしてのみ、あなたは見る目と聞く耳を持つ。あらゆることが何の障害もなく、あなたの実存のまさに中心にまで深く届く。 

存在におけるあらゆることが、滋養に満ちている。存在におけるあらゆることが、それ自体目的を持っている。それは、それ自体の役割を果たしている。あなたが自分の借り物の知識に従って拒絶する物事が、存在にとっては必要とされているのだ。さもなければ、それはそこには存在しない。どこで起こっている何にしろ、存在から支えられているに違いない。さもなければ、それは単に死にゆく。 

生は、多彩であることが必要だ。誰もが聖人であるような世界を考えてごらん。それは最悪の世界だろう。最も退屈で、その退屈さが重苦しいので、ひとつの欲望が生み出される・・それは、自分自身をどうやって終わらせるかだ。あなたは聖人全てを殺すことは出来ないからだ。だが、その退屈さを取り除く為の自殺をすることは出来る。もし全ての人々が同じ体形で同じ顔だったら・・いかにその顔が美しかろうが、いかに性格が美しかろうが・・もし全く同じコピーに次ぐコピーであったら、あなたは完全に退屈するだろう。 

ひとりの女性を知れば、全ての女性を知ったことになる・・終わりだ。他の体験をする機会は存在しなくなる。ひとりの男性を知れば、全ての男性を知ったことになる!それは正しくない。全ての男性は違っており、全ての女性は違っているからだ。ひとつひとつのバラは違っている、ひとつひとつの花は違っている。 

私がここに来る用意を整えていて入浴していた時、カッコーが私の庭で狂ったように鳴いていた。だが私は不思議に思った・・それぞれのカッコーが独自の歌を持っている。私は何羽のカッコーがそこにいるのか、明確に知ることが出来た。彼らの歌は違った。彼らの音色は違った。存在は、その多様なありとあらゆるものの面倒を見る。 

罪人もまた、この世界では必要だ。彼らは生をより陽気にする。聖人もまた、あなたが従うべきではないサンプルとして必要だ。彼らは完全に死んでいる。避けるべき良い例だ。罪人は素敵な人々だ。私は悲しんでいる罪人を一度も見たことがないし、喜びに満ちている聖人も見たことがない。奇妙だ・・もし宗教が真実であれば、それは逆であってしかるべきだ。だが宗教は真実ではない。 

罪人には、聖人が持っていないような無垢な質がある。聖人は非常に計算高く、非常にずる賢い。彼らが自らの気高さのもとにしていることは、あの世の一等地、立派な家、銀行口座を買い占めることだ。彼らはあまりにも強欲なので、この美しい惑星、生のこの美しい踊りでは満足出来ない。罪人は、強欲さの全くない人々だ。彼らは小さな出来事に歓喜する・・美しい女性、美味しい食事、一杯やること。彼らは踊り、歌い、祝うことで非常に幸せだ。こうした者が、真の地の塩だ。彼らは必要とされる。そして聖人も、あなたがそうなることがないように必要とされる。 

だが覚えておきなさい。世界におけるあらゆることは、独自の立場、独自の尊厳を持っている。あなたは自分のジャッジで、誰かの尊厳を壊している。誰か他の人の領域に干渉しているのだ。ジャッジでいっぱいの人間は醜悪になる。耐えがたいものになる。ジャッジを持たない人間は、誰でも常に歓迎される。なぜなら、決してあなたの領域に干渉しないからだ。あなたの精神性と尊厳を、決して侵害しないからだ。 

あなた方のあらゆるジャッジは、神という名のもとの聖職者から生まれる。神それ自身では、それは出来ない。なぜなら、彼は偽りだからだ。彼は存在しない。彼は決して存在したことがなかった。だが聖職者達は、嘘を守り続けている。それこそが彼らの職業だ。神が完璧に暴露されてしまえば、聖職者達は、人類に対する搾取を続けていくことが出来なくなる。彼らは人類に対して、神を売りつけている。在りもしない神を。 

私はニューヨークで、目に見えないヘアピンを売り出している店のことを聞いた。当然そこには女性の長い列が出来た。目に見えないヘアピン?女性ならその誘惑に打ち勝つことは出来ない。ひとりの女性がそれを買い、箱の中を覗き込んだ。もちろん目に見えないヘアピンを見ることは出来ない・・空の箱を見て、彼女は販売員に訊ねた。「ここにヘアピンがあることは確かなの?」彼は言った。「実は私達は、ほぼ2週間で目に見えないヘアピンを売り尽くしてしまったんです。でも空き箱は売ってますよ。ですが本当のところは、目に見えないヘアピンなどというものはないんです。最初から単なる空箱が売られているんです」 

あなたは人々に、目に見えないヘアピンを売ることも出来よう。そして神は、世界で最も不可視なものだ。いつの日か、私達は目に見えないヘアピンを発見することがあるかもしれない。が、神は製造され得ない。しかも私達の手で製造された神など大した神ではない。私達は毎年モデル・チェンジしたくなる。大富豪なら6ヵ月ごとに変えたくなるだろう。 

だが神はどこにも見い出せないがゆえに、聖職者のビジネスは繁栄し続けている。彼らは完全に知っている・・彼らこそ唯一知っている人々だ・・神が存在しないことを。しかし彼らは、それを口にすることは出来ない。なぜなら、自分達の職業全体に何が起こると思うのかね?百万年の古さを持つ職業、それは世界中の何百万という聖職者達の生活を支えている。しかも彼らは、あらゆる場所で最も身分の高い人種だ。それを失いたくはない。彼らは失業したくはない。 

その為に彼らはさらに戒律を、ジャッジを作り続けている。彼らはさらに神学的な虚構を作り続け、あなたのマインドに餌を与え続けている。彼らの目的の全ては、あなたのマインドがあらゆる類のゴミでいっぱいで、知性的になる為の空間をどこにも持てないようにすることだ。あなたが空っぽのマインドを持つことが出来れば、ノーマインドもそれほど遠いことではないからだ。空っぽのマインドは、ノーマインドへの扉だ。空っぽのマインドがノーマインドへの踏み石となる時、それは全く問題のない状態、障害のない状態を創る。 

あなたのマインドはコーランで、聖書で、ギータでいっぱいになっていなければならない。さらに何千という教典が存在する。あなたは自分が望むゴミを、好きなように選ぶことが出来る。あらゆる大きさ、あらゆる型がそろっている。途方もない選択がある。地球上に300もの宗教がある。新しい宗教は想像も出来ない。全ての可能性は使い尽されている。ひとりの神について300の宗教、あなたは選ぶことも出来よう。あなたは選択の自由があるが、選ばずにいる自由はない。 

そして、私があなた方に教えていることがそれだ。選んではいけない・・探究し発見しなさい。自分がハッキリ理解する前に、決めてはいけない。そして認識、解放、自由があなたに、あらゆることに対する洞察を与える。あなたは自分を取り囲む生全体に、慈しみと愛情を感じるだろう・・それは、ジャッジなしでいることだ。 

私はあなた方に、ひとりの禅師について語ったことがある。 
ひとりの泥棒が、そこが禅師の家だとは知らずに入ってしまった。そこには何も物がなく、禅師は非常に恥ずかしく感じた。夜は冷え冷えとして、彼は昼間に自分の身を包み、夜に眠る時体をくるむ為の2枚の毛布を持っているだけだった。それが彼の持ち物の全てであり、家は空っぽだった。彼は泥棒に対して非常に慈しみを感じ、彼が出て行こうとした時、毛布を彼の方に投げかけて言った。 

「どうか受け取って欲しい。あなたは何の前触れもなくやって来た。少なくとも3日前にちょっと知らせてくれたら、あなたの為に何か集めておいただろうに。私は初めて本当に貧しいと感じている。私はあなたに何もあげることが出来ない。この家は空っぽなのだから」泥棒は、この男を非常に恐れた。彼は寒い冬空に裸で立っている。しかもただひとつの持ち物である毛布を与えてしまった。 

実際、その男は奇妙だ。彼は自分に言っている。「あなたはまず私に知らせてから来るべきだ。少し時間をくれれば、私は人々から物を恵んで貰って、何かあなたの為に取っておいたのに。突然やって来るなんて間違っている」この男は実に奇妙だ。泥棒は多くの人々と出くわして来た。みなが彼に腹を立て、彼を警察に突き出した・・彼は何回も監獄の中で苦しんだ。みなが罵倒し、侮辱した。刑務所帰りにとって生活は困難だった。仕事がない。誰も彼に職を与える用意がなかった。ついに彼は、監獄に戻るただそれだけの為に、再び罪を犯してしまった。監獄が、彼にとって家になっていたからだ。少なくとも、彼は食物、宿、衣服を得ることが出来た。 

この男は奇妙だった。彼はその男が恐ろしくなり、走って逃げ去ろうとした。禅師は叫んだ。「止まれ!それでは駄目だ。戻って来なさい。私に礼を言えば、あなたは何かを盗んだという罪悪感を抱かずにすむ・・私はそれをあなたにあげたことになる」「それから扉を閉めて行ってくれ。あなたが扉を開けたんだから、これだけはあなたの責任だ・・扉を閉めることがね。私は裸だし、扉が開いていては冷たい風が入って来てしまう・・あなたは何の慈悲もないのかね?」 

そこで泥棒は彼に礼を言った。泥棒が扉を閉め立ち去ろうとした時、禅師は言った。「おそらくいつの日か、この礼を言ったことがあなたを助けることになるだろう。この扉を閉めたことが、あなたにとって非常な助けとなるだろう」彼は、その助けが何であるかを理解出来なかった。その夜、窓越しに空に浮かぶ満月を見ながら、その禅師は俳句を詠んだ。 
『出来ることならこの月を、あの盗人に与えたかった。 が、私の手の内にそれはない』

2年が経ち、この泥棒は非常に凶悪な一件で捕まってしまった。おそらく彼は終身刑となるだろう。裁判官は彼にこう言った。「我々には、お前がこの犯罪を犯したという証拠がない。ただ状況証拠があるのみだ。もしお前が、誰か権威のある人物を連れて来ることが出来、その人が、お前はそんな罪を犯すような人物ではないと証言出来れば・・」彼はあの禅師を思い出した。自分を助けられる唯一の人だったからだ。彼はその禅師の名前を告げた。裁判官は言った。「お前はあの禅師を知っているのか?私も彼を知っている。もし彼が、お前が犯罪者ではないと言うなら、この件は終わりだ」 

禅師がやって来て言った。「あなた方は、この男が犯罪者だと言うのかね?この人はとても良い人だ。私が毛布をあげた時、彼は礼を言ったし、扉を閉めるように言った時も閉めてくれた。彼はとても素直で非常に善良な男だ。毛布はたいそうなものではなかった。穴が開いていたし、使い古されていた。彼は、私が帝国でも与えたかのように受け取ってくれた。彼はとても感謝に満ちている。彼を放してあげなさい」その禅師は、皇帝さえも知っているような人物だった。訴えは取り消された。 

泥棒は、禅師の後をついて行った。禅師は言った。「どこに行くつもりだね?」泥棒は答えた。「私はどこにも行きません。私は、あなたと共に参ります。私は何のジャッジもせず、私に尊厳を取り戻してくれた人物を見つけたのです。私は初めて、自分を人間として、そして私を愛し気づかってくれる人がいるのを、そして何ひとつ良いことをしたことがないひとりの男にさえ慈悲を感じてくれる誰かがいるのを感じるのです」 

禅師は言った。「自分自身をジャッジしてはいけない。それが問題だ。人々は他者をジャッジし、そして自分自身をもジャッジする。彼らは、自分自身をジャッジすることで罪悪感を抱く。彼らは他者をジャッジすることで、その人々の尊厳と誇りを取り上げている。このジャッジに満ちたマインドは、諸刃の剣だ。それは両者を切りつける。それはあなたを切り、他者を切る。それが人類全体を破壊して来たのだ」 

このジャッジに満ちたマインドを落としなさい。そして、このジャッジに満ちたマインドと共に、あなたはあなたの宗教全て、あなたの道徳全てを落とす。あなたはあらゆる人と、そのユニークさに歓喜するような無垢な子供になる。 

*地の塩・・マタイ伝5章13節「汝らは地の塩なり、塩もし効力を失わば、何をもてかこれに塩すべき」世を清める人の意に用いられる。

 

第2の質問: 
『私達の多くは、あなたの外科手術を長いこと受けているにも関わらず、依然として罪悪感に悩まされているようです。何であれ、もし私達が何かをすれば罪悪感を感じ、しなくても感じるのです・・これは勝ち目のない状態です。そしてそれは深ければ深いほど、より微妙で捕まえどころがないように思われます。私達はこの狡猾な、感情的な強迫から自由になり得るのでしょうか?これが、あなたが最近の神に関する講話を通してなさっている外科手術なのですか?』 

何だと思っているのかね?神を殺すことで、私はあなた方の罪悪感を殺している。私は神など気にしていない。なぜなら、彼は存在しないからだ。だが私は、あなた方の罪悪感を直接的には殺さないよう、非常に慎重でなければならない。さもなければ、あなたは守りに立ってしまうからだ。それゆえに私は神を殺す。それはあなたの罪悪感を殺す、私の間接的なやり方だ。神なしで罪悪感を感じることは出来ない。それこそが、まさに私の関心ごとだ。 

私は神に手術を施している。それは、あなたを手術する間接的な方法だ。神を寸断することで、神に対してしがみつくことが消え去り、神の戒律に対してしがみつくことが消えるという、これは奇妙な外科手術だ。神がいない時、突然あなたは全ての道徳を落とす。そして、全てのいわゆる義務や徳を落とす。突然、あなたは非キリスト教の異教徒となる。私は異教徒を愛する。私は、世界が異教徒の手に戻って欲しい。 

全ての宗教は、異教徒を破壊して来た。それは彼らが何のジャッジもなく、神もなく、道徳もなく・・ただシンプルで無垢であり、深い手放し(レット・ゴー)の中で、自然と共に流れて行く人々だからだ。彼らがしていたことは何であれ、内発的なことだった。彼らが従って来たことは何であれ、彼らの自然さから生まれているものだった。罪悪感という疑問はない。勝ち目のない状況というものは存在しない。異教徒はいつでも勝者だった。するにせよ、しないにせよ、それが何であれ自分の尊厳を、誇りを持っていた。 

私はあなた方に異教徒であって欲しい。それがブッダへの第一歩だ。私はゾルバを異教徒の例として選んだ。それはまさに基礎だ。その基礎の上に、あなたはブッダの為の寺院を建てることが出来る。だが土台がなければ、ブッダは風船のように空中に浮かんだままだ。それを礼拝も出来よう。だが、それに滋養を与えて貰えるようなことはない。あなたの根が、大地の奥深くに張らない限り、枝が空へと成長していくことは不可能だ。大地の奥深く根を張らない限り、星に触れることは出来ない。まずあなたは、非常に現実的に大地に根ざさなければならない。その時初めて、星に向けての成長が始まる。 

地中の根なくしては、あなたは星を見上げる人に留まる。星に向かって成長することはない。あなたはブッダを見つめ、礼拝し、祈りを捧げる。が、礼拝は助けにならないし、祈りも助けにならない。助けになるものは真の土台、そして真の土台はこうだ。神なしでいること、教典なしでいること、戒律なしでいることだ。自由な人間で在りなさい。精神的に隷属した人間でいてはいけない。 

先延ばしにしてはいけない。どのくらい掛かるかなどと私に訊ねたりしないように・・それはあなた次第だ。もしあなたが、惨めで勝ち目のない状況に捕われていると感じるなら、なぜあなたは、それを落とすことが出来ないのかね?私はメシアでも、預言者でも、神の生まれ変わりでもない。私は奇跡的な力など持っていない。私はあなたと同じように、ひとりの人間だ。もし私にそれが出来たのなら、あなたを妨げているものは何なのかね? 

一度こうした虚構や、神話全てからの自由を達成すれば、もう最高だ。あなたは新鮮で若々しく、生き生きとして、踊りはひとりでにやって来る・・あなたの最奥の実在は、有り余るほど豊かだ。あなたの実在は、あなたが宇宙と繋がっているそこだ。あなたの宇宙における根は、最奥の中心から成長する。ひとたびあなたが、存在を在るがままに受け入れれば、あなたは自分自身もまた、在るがままに受け入れることになる。 

あなたが存在に、他者に、改良を加えたいとしたら、あなたは自分自身に寛ぐことは出来ない。あなた自身のジャッジが、あなたの首を絞めることになる。決して考えたことがないだろうが・・誰かについてジャッジを下している時には、いつであれ自分自身にもまたジャッジを下しているのだ。仮にあなたが誰かを泥棒として非難すれば、あなたは自らを非難しているのだ。あなたも、あらゆる類の盗みを犯したかもしれない、他の人々の思考を盗んだかもしれない。他の人々から仮説を盗み出したかもしれない。 

金銭だけではない。その人への感謝の気持ちなしに、またその人に知らせることなしに、人から何かを取ることは盗みだ。金銭は、世界で最もありきたりの物だ。遥かに価値が高いものがたくさんある。あなたが真似ている時、あなたは盗んでいる。ジーザスを真似、仏陀を真似る時、あなたは何を盗んでいるのかね?・・彼らの個性を盗んでいるのだ。あなたは最悪の類の泥棒だ。しかも、寛ぎを感じることは出来ない。 

人々は、自分自身を受け入れることが出来ない。なぜなら、他者を在るがままに受け入れることが出来ないからだ。私は自分の生涯で、決してジャッジを下したことがない。私はありとあらゆる人々を愛して来た。彼らのユニークさが、彼らをより愛すべきものにする。そして何の区別もなしに、あらゆる人々を愛して来たゆえに、私はいかなる形の罪悪感を感じた事も、自らを拒絶したこともない。私は自分自身を、途方もなく愛して来た。

これらは相伴っていく。もし他者をジャッジすれば罪悪感を持つことになり、自分自身もまた絶えずジャッジすることになる。正しいか間違っているかと・・両方が一緒に落とされるべきだ。私に聞かないことだ。それは先延ばしにする為の狡猾な方法だ。時間はかからない。理解が必要なのだ。そしてその理解は今、まさにこの瞬間に可能だ。自分のジャッジ全てを落とす。自分の罪悪感全てを落とす・・これらは共に、排水管へと流れていく。するとあなたは、健康な動物のように生きる。そして健康な動物であることから、あなたの健やかさから、大いなる体験が湧き起こることが可能になる。 

あなたが自然になる時、仏性の体験へと近づいている。ゾルバのみがブッダとなり得る。ゴータマ・ブッダ自身は、ひとりのゾルバだった。仏教徒はそれを理解していない。彼は人生の最初の29年間に、比較にならないほどの多くの美しい女性達を侍らせていた。彼はその時代に手に入れることの出来た、全ての快適さと贅沢を手にしていた。彼はまさに、そうした贅沢さの中に生きていた・・美酒を飲み、踊り、歌う・・それが彼の29年間の人生の全てだった。 

あなたが80歳になっても起こらないようなことが、彼には29歳で起きてしまった。彼はうんざりした。全てが繰り返しだったからだ。彼はあまりにも多くの女性に取り囲まれていたゆえに、女性に飽き飽きしてしまった。あなたは自分の妻ゆえに、女性にうんざりすることはない。あなたの妻は、防護壁だ。彼女はあなたがあちらこちらを見るのを許さない。彼女は、あなたを真っ直ぐ前を見るようにさせる・・それもせいぜい4フィートほど前を、それ以上はいけない!それにあなたも不必要に問題を作りたくはないので、それに従わざるを得ない。 

そして彼女は、あなたにある特定の道徳を押し付けているがゆえに、彼女も自分自身それに従わざるを得ない。さもなければ、彼女があなたにそれを押し付けるのは不可能だ。これは非常に込み入ったシステムだ。夫は妻にとっての牢獄となり、妻は夫にとっての牢獄となる。両者は奴隷であり、主人でもある。両者は囚人であり、看守でもある。そしてふたりとも、お互いを追い払いたがっている。だがふたりともその結婚が、天国によって結びつけられた価値のあるものだと考えている。そして神が一緒にしたものを、あなたはバラバラにするべきではない。 

さて私が見た限りでは、天国で取り決められた結婚は存在しない。神自身、妻帯者ではない。彼は女性から、可能な限り遠くへ逃げた。おそらく百万光年の彼方へ。女性を見い出す可能性は全くない。だが欲望はあるので、彼はごくたまにイエス・キリストを創造するという名目でやって来る。ごくたまに・・彼は許されてしかるべきだ。このあわれな男は精霊と住んでいる。私はこの精霊が、男性か女性かを知ろうとして来た。おそらく彼は両性のやり方で機能出来るのだ! 

ゾルバ・・カザンザスキ著「その男ゾルバ」(恒文社刊)の主人公で、欲求と衝動に誠実に従い、結果を恐れない勇気を持つ。 

 

聞いた話だが・・ヘンリー・フォードが死んだ時・・彼は完璧主義者で偉大な男だった。偉大なる人物、そして大富豪のひとりだった。彼は貧しい家族の出身だった。彼が築き上げたものは、彼自身の努力と彼自身の知性の賜物だった。彼が天国で神と会った時、神はヘンリー・フォードに訊ねた・・彼が訊ねるのに相応しい人物だったからだ・・「私の創造物についてどう思うかね?あなたが完璧主義者だということを私は知っている。あなたは最高の車を作り出し、しかもそれに改良を加え続けた。私の創造物についてどう思うかね?」 

彼は言った。「あなたの創造物には、大変な改良が必要ですね」神は言った。「例えば?」彼は答えた。「例えば、あなたは男性と女性の喜びのセンターを間違った場所に置かれました。ふたつの排気管の間に女性の喜びのセンターを設置するなんて!」彼は車の製造者だった。そして彼は正しいように思われる。「あなたは何て不潔な人なんだろう。喜びのセンターを最も汚い場所に据えるなんて。他のどこかにすることは出来なかったのですか?手のひらとか・・」 

私は彼の批判は的確だと思う。神はショックを受けた。彼はヘンリー・フォードキリスト教徒だと思った・・だが、あなたが人々にジャッジを押し付ける時、こうした人々は、神に対してジャッジを押し付けていく。もし偶然に、彼らが神に会えばの話だが。 

ジャッジを下すことでいっぱいのマインドは、誰をもジャッジしていく。あらゆることが惨めになる。あらゆることが間違ったように見える。あらゆることが否定的なように見える。常に薔薇の茂みの中の棘を数え続ける。決して花を見ることがない。棘を数えることに全生涯を費やし、花を見る為の時間が存在しない。常に物事の暗い面を見る。 

あなたが彼に訊ねたとする。すると彼はこう言うだろう。「なんて惨めな世界なんだ。ふたつの夜の間に、たったひとつの昼しかないなんて!」彼のものの見方全てが非難することであり、彼は非難することの中で気分よく感じる。だが彼は自分か他者を非難している時は、自分自身をもまた非難していることに気がつかない。奥深くで彼は、罪悪感を感じる。 

おそらくあなたは、自分の惨めさを楽しみ始めていたのだ。それに慣れてしまった。それを落とせば虚ろに感じると思えるほどに。そう、あなたは空っぽになるだろう。だが、それは極めて短い間だけだ。瞬間、あなたは全てが失われたように感じるだろう。が、すぐに自分の空っぽさが、全く新しいエネルギーで満たされ始めているのが分かるだろう。あなたは自分のジャッジ、罪悪感、道徳、宗教、そして神で、そのエネルギーを抑圧して来たのだ。 

突如として自分自身の源泉から、新しく、新鮮な生命の水が、泉のように湧き上がるのを感じる。すぐにあなた自身が途方もない充足、光、歓喜、至福で満ちているのを感じる。満たされるだけでなく、溢れ出ていて、有り余るほどのものが可能だが、あなたは空っぽになるという危険を冒さなければならない。それは大したことではない。なぜならあなたが失うものは、惨めさ、罪悪感、悲しみ、悩み、地獄の火だからだ。あなたが落とすものは、持ち続けている価値のないものだ。 

そしてひとたびあなたが清浄になれば、その全ての優雅さと美、全ての知恵と光明をもって、存在それ自身が明らかになることに対して、あなたの準備が整う。だがある瞬間、あなたは空っぽにならなければならない。新しきものが入って来る前に、古きものは立ち去らなければならない。真実が入って来る前に、虚偽は落ちなければならない。 

あなたは確かに脅迫されて来た。人類全体が脅迫されて来た。そして脅迫は続いている。まさに幼少期から、それは始まり続いていく。あなたが墓場に入る時ですら、司祭が説教をする。誕生から死まで、聖職者はあなたを神のもとに、偉大なる物事という名のもとに、脅迫している。政治家は、あなたを国家主義愛国心という名のもとに脅迫している。あなた自身の両親は、あなたを従順さ、年長者を敬うことのもとに、あなたを脅迫している。 

私は文部省の援助のもと、州政府によって開かれたインド全国の教授のセミナーに参加したことがある。教授達はみな、ただひとつの事柄を話し合っていた・・尽きることなく・・その問題は、生徒が全く敬意を払わない、それについて何かなされなければならない、ということだった。それに関しては、全員が同意しているようだった。私の話す番が回って来た時、私は言った。「ここにいる人々が話していることは、ナンセンスだ」文部大臣はショックを受けた。眠りこけていた教授達はみな起きた。 

私は言った。「生徒達が敬意を払う、払わないの問題ではない。問題は、教授が敬意を払うに値しないことだ。あなた方は、問題全体を間違った側面から見ている。だからあなた方は解決出来ないのだ。そして私は、自らの体験から話している。私は9年間教授を務めているが誰ひとりとして、私に対して敬意を抱かなかった者はいない。それは私が、生徒達を尊敬しているからだ。どうやって彼らが、私を尊敬しないでいられるかね?私は彼らを尊敬する。私は彼らを愛する。私は彼らに自由を与える。私は彼らにこう言う。 

『もし教室から出て行きたかったら、誰の邪魔もしないよう静かに出て行くことが出来る。 
私に訊ねてはいけない。そうする必要はない。授業に来たい時はいつでも来るといい。私に訊ねたりしないように。あなたは私に訊ねることで、私を邪魔し、授業も中断することになる』 

初めて大学の門をくぐった時、私は自分の目を疑った。女子生徒達は一方に座り、男子生徒達が他の側に座っていたからだ。そして、その間には大きな隙間があった。私は言った。『どうしたというんだね?私は誰に向かって話すというのかね?この隙間に向かって話すというのかね?それに私は、こういう風に(腕を広げる)見れるような目を持っていない・・君達が私に教えて貰いたいのなら、自分の机を真ん中に持って来て、一緒にしなければならない。私は君達が手紙を投げるのを見るのが大嫌いだ・・それは醜い。なぜ女の子の隣に座って温かみを楽しみ、あなたの愛を分かち合わないのかね?君達は充分に成長している。抑え付ける必要はない。私は君達が、女の子を食べてしまう人食い人種だとは思わない・・だから、すぐに一緒になりなさい!』 

彼らはお互いを見合った。「これはすごく奇妙な状況だ」という具合に。どの教授も保安官のような役目を果たし、彼らを離したままにしておくのに「・・それにこの人は変わっている」私は言った。『早くしなさい。さもなければ私は教室から出て行き、もう二度と戻っては来ない!』彼らはしぶしぶ、自分達の机を一緒にした。非常に恥ずかしい思いをしながら、彼らは自分達が石を投げたり、自転車のタイヤをパンクさせた相手の女の子の近くに行った。 

さらに私は言った。『お互いに近くに座りなさい!なぜ君達がこちら側で縮みあがり、女の子達はあちら側で縮みあがっているのかね?あなた方の隙間は、埋められなければならない。一緒になりなさい!』彼らは大学副総長に報告した。「私達はどうしたらいいのでしょう?他の教授が入って来ると、彼はこう言うのです。『何が起こっているんだ?机を離しなさい!誰がこんなことをしたんだ』と。そして私達は絶えず机を一方に運んで・・」 

副総長は私を呼び出し言った。「君の方が間違っている。」私は言った。「あなたもかつては若かったでしょう?」彼は言った。「そうだが」私は言った。「それならば、ざっくばらんにいきましょう。あなたが学生だった頃、女の子を愛したことがありますか?」彼は誰も聞いている者がいないのを確かめる為に、辺りを見回した。私は言った。「誰もいやしません。ここには私ひとりしかいません。本当のことを言っても大丈夫ですよ」彼は言った。「ある」 

私は彼に訊ねた。「あなたは彼女達のタイヤをパンクさせたり、石を投げたりしましたか?」彼は言った。「それもやった」私は言った。「それならば全てお分かりでしょう。あなたは不自然な状況を作っているのです。もう私の生徒は誰かのタイヤをパンクさせたり、石を投げたりしません。彼らはそんなことをする必要がないのです。それに、これは間違いなく自然なことです。 

彼らは性的に大人になっています。彼らはかなり以前、13,4歳だった頃に成熟しているのです。今、彼らは22,24,26歳で、あなたは彼らを10年間も絶えず苦しめて来ました。生物学的なものに反して、存在に反して、自然に反して彼らを脅迫して来たのです。そしてひとりの女性、あるいは夫を選ぶ前に、彼らが可能な限り多くの体験をするべき時なのです」 

買物に行く時・・たとえ小さな物でも多くの店に行き、値段を調べ、品質を見るだろう。ましてひとりの女性、あるいは男性と自分の生涯を伴にしようという時、あなたが買物に行ったことがないとしたら、まず買物をしなさい。ただ可能な限り多くの体験をしに行って来なさい。もしあなたが知性的であるなら、こうした体験の全てが、あなたをより豊かにする。そうすればあなたは、自分が深い愛と友情の中に在ることの出来る、女性なり男性なりを見つける能力を持つことになる。離婚の必要はなくなる。 

もし私達が子供達に充分な体験を与えるなら、離婚は非常に少なくなる。彼らは、ひとりひとりの男性の間に、ひとりひとりの女性の間に、微妙な違いがあるのを知る。彼らはまた、どういったタイプの女性、どういったタイプの男性と、自分がもっと気安く、寛ぎを感じるかを知るに至る。だがあなたは、彼らに何の機会も与えない。これは全くの恐喝だ。あなたの両親に責任がある。あなたの神に責任がある。あなたの聖職者に責任がある・・あなたの社会全体に責任がある。だが究極的には、あなたに責任がある。 

扉が開かれているというのに、なぜあなたは牢獄の中に生きているのか?出て来なさい!そして私に、どのくらいかかるかなどと訊ねたりしないように。あなたが牢獄から走って出るか、あるいは再び捕まり、独房に押し戻されるようなやり方で歩いて出るかは、あなた次第だ。 

ひとりの子供が、ある雨の日に学校に遅刻してしまった。担任の教師が彼に訊ねた。「ジョニー、君はいつも遅刻するな。またしても遅れたぞ」彼が言った。「どうしようもないでしょ?すごくツルツルすべって、1歩進むと2歩すべって後ろに行っちゃうんだもの」教師は言った。「もし君が正しいのなら、どうやってここに着けたのかね?1歩前に進んでは、2歩下がるのなら、決してここには辿り着けないはずだよ」彼は言った。「分かってませんね?僕は自分ん家に向かって歩き始めたんです!そしてやっと学校に着いたんです」 

そう、全てはあなた次第だ・・それは非常にすべりやすい道だ。もしあなたが本当に望むなら、それはこの瞬間にも起こり得る。だがあなたが先延ばしにするなら、おそらく決して起こらないだろう。 

・・(以下略)・・ 

OSHO、I Celebrate Myself、God is Nowhere、Life is Now Here.より抜粋 
(1989年2月3日の講話)