84.感謝の錬金術
<OSHOの講話より>
質問:愛するOSHO、この質問は、震えるハートによって訊ねられ、震える手によって書かれています。私の感謝は、あなたの贈り物に対して、あまりにもかけ離れているように感じられます。なぜ私は、これほどあなたに値しないと感じてしまうのでしょうか?
恋愛をしている時に見られる、ある現象がある。そのひとつは、自分がそれに値しないと感じることだ。愛はあまりにも広大で、あなたはあまりにも小さい。愛を創り出すことは出来ない。それは自ずとやって来る。それは突然、あなたに降り注ぐ。あなたがそれを起こしている訳ではないから、それに値しないと感じるのは当然だ。愛が深まるにつれて、自分がそれに値しないという感覚も深まってゆく。恋愛をしている人がそれを感じないなら、その愛が表面的で、エゴがあまりにも大きいということだ。
愛の大いなる出来事の前に、自分がそれに値しないと感じることは、完全に必要であり、それを避けることは出来ない。何も悪いことはない。それは全くそうあるべきだ。この値しないという感覚から、やがてゆっくりと変容が起こり始める。それがあなたにも起こることを、私は予告しよう。なぜなら、この値しないという感覚は、単に頭で考えた質問ではないからだ。
頭は、決してこのような質問をしない。エゴは、このような質問を許さない。マインドに、このような質問をする力はない。マインドとエゴと頭・・それらは全て、人生に起こるあらゆることに対して、それだけでは充分ではないと考える。彼らには、さらに多くを受け取るだけの価値があると考える。だからそのようなところから、あの質問が生まれることはあり得ない。
残されたところは、いつも真実で正直なハートだ。そして一度ハートが値しないと感じたら、その感覚はもはや悲しみを与えはしない・・それは感謝をもたらす。やがてゆっくりと、値しないという感覚は感謝へと変わってゆく。自分が何かに値しないとする・・ところがそれは、あなたにずっと降り注がれて来た。存在があなたを選んだ理由さえも、分からない。
ゴータマ・ブッダの弟子であるマンジュシュリ(文殊菩薩)が光明を得た。突然、樹から花々が降り注ぎ始めた。周囲の者達は、何が起こっているのか全く分からなかった。強い風など全然吹いていなかった。これほど多くの花々が、マンジュシュリの上に降り注ぐ理由は何もなかった。彼は目を閉じて静かに坐っていた。おそらく彼自身も、それに気づいていなかったに違いない。人々はゴータマ・ブッダに報告した。ブッダは、マンジュシュリが坐っていた樹の下を見て言った。「彼は、自らの運命が定めたものになった。彼は、自らの開花に到達した。だから、彼の内なる存在が喜びに満ちているばかりでなく、その樹でさえも、それを祝っているのだ」
この種の話は何世紀もの間、寓話として、詩として、美しい逸話として語られて来た。だが現在、私達はそれが科学的な見地から、実際に可能であると言うことが出来る。樹々は非常に敏感であり、人間よりも敏感だ。樹々は、あなたの祝祭に参加する。
感謝することを学ぶだけで、人は途方もない喜びを受け取ることが出来る。だから、あなたが辿っている道は正しい。だがいつまでも、自分が値しないと思い続けてはならない。なぜならその感覚は、感謝に変容されなければならないからだ。誰ひとり値しないというのは、本当だ。自分が生きている為に何をした?そのような美しい眼を持つ為に、何をした?ゴータマ・ブッダになるという、内に秘めた可能性を持つ為に何をした?何もしていない。
単に豊穣な存在から、溢れているに過ぎない。存在はあまりにも豊かで、単に自らの重みを降ろす為にそれを分かち与える。存在は溢れている。それでも人々が渇いたままでいるなら、それは自分達の責任だ。インドに古い諺がある。「喉を潤さずに川のほとりに立っていることも出来る」頭を下げ、両手で水をすくうことを学ばない限り、川の水は自分からあなたの方に飛び込んで来ることはない。水はそこにある。少しでも謙譲の心、物事を受け容れる心があれば、あなたは自分の喉を潤すことが出来る。
生において素晴らしいことは全て、余るほど満ち溢れている。だから自分が値しないという感覚によって、委縮しないことだ。その感覚を体験することは、第一歩として素晴らしいが、私達は一体何に対して値するというのだろうか?生に対しても、愛に対しても、この美しい肉体に対しても・・私達は、何に対しても値しない。私達は単に、それら全てがあって当然だと思い込んでいるに過ぎない。これが非宗教的なマインドだ。
私は神を信じない人を、非宗教的だとは言わない。寺院や教会に行かない人を、非宗教的だとは言わない。天国や地獄などあの全てのナンセンスを否定する人を、非宗教的だとは言わない。だが自分が受け取っているもの、刻一刻受け取っているもの全てに対して、自分が値しないと感じない人を、私は非宗教的と言う。ひとつひとつの呼吸、ひとつひとつの鼓動によって、生はあなたに与え続けている。実際に味わわなければ想像も出来ない、途方もない至福を、この同じ生は与えることが出来る。
ただ、あなたの値しないという感覚を感謝・・「有り難い」という気持ちに変容するがいい。そして私にとって、この種の感謝が唯一の真の祈りだ。ひと言も語る必要はない・・自分が値しないという感覚、これほど多くが私に与えられ、これほど多くが私に降り注ぎ続ける理由が分からない、という感覚だけで充分だ。感謝する以外、一体私に何が出来よう?この感謝が、あなたの意識、あなたの身体の繊維と細胞にまで深く浸透すべきだ。あなたはただ感謝そのものになる。その時、それは祈りだ。
世間で祈りと呼ばれているものは、単なる偽物だ。無数の寺院、教会、ユダヤ教教会で、無数の人々が休みなく祈っている・・だが、彼らは常に何かを求めているから、彼らの祈りは偽物だ。彼らは、すでに自分に与えられているものに感謝したことがない。彼らの祈りを眺めれば、あなたはその中に乞食を見い出す。感謝のない乞食だ。そして全ての宗教の、全ての祈りの中に・・私は全ての宗教を、可能な限り深く調べてみた・・物事が思い通りになっていないという、ある種の不平が込められている。
「他の人々は私より多くを得ているが、私はそれほど得ていない」これらは祈りではない。単に時間の浪費だ。彼らは、祈りの意味さえ理解していない。それは言葉の中にあるのではない。それは「祈りに満ちた気持ち」だ。「祈りに満ちた気持ち」の意味するところはひとつだ。そして、それはただひとつしかない。それは感謝・・樹々が緑に色づき、大地の渇きを潤す為に雨が降る・・あらゆることによって、あなたの実存に深く浸透してゆく感謝の気持ちだ。
最初の雨が訪れる時、地面から湧き起こる甘い匂いは、大地の感謝だ。そして樹々が緑に色づき、無数の花を咲かせるのは、大地の感謝だ。それは大地の祈りだ。あなた方は、そのようになるべきだ。あなた方の祈りは、そのようになるべきだ・・感謝の気持ちそのものに・・やがてゆっくりと、人は不平とは何か、恨みとは何かを忘れてゆく。感謝の気持ちと調和してゆくにつれて、人は何かを求めなければならないことなど、完全に忘れてしまう。物事は、求めずに与えられる。ただ扉を開いているだけで、客人は訪れる。ただ待っているだけでいい。愛をもって、祈りをもって待っているだけでいい。
未だかつて、いかなる宗教も人類に与えなかった祈りの意味を、今私はあなた方に与えている。彼らの祈りは、あまりにも幼稚で愚かだ。感謝に満たされることによって、あなたはさらに多くの贈り物を受け取ることが出来る。人の心を何世紀にも渡って支配して来た、似非宗教の大半は作り物だ。私はアルバート・カミュの非常に奇妙だが、素晴らしく、また真理に溢れた言辞に出会った。「神が存在していないとすれば、我々が自分で創造しなければならない」
・・さもなければ、誰に向かって不平を言うことが出来る?誰の肩に、あなたの全ての責任を負わせる?誰に向かって腹を立てる?誰があなたの安息の場所、安全の場所になる?幸運にも神は存在しない。特にあなた方に対しては存在しない。神を信じる人々がいる。深いところで、彼らは神に怒っている。彼らは祈りを捧げ、神を崇拝していることを表明するだろう。だが、深いところで彼らは思っている。
「なぜ私の妻が、癌に苦しまなければならないのです?神に慈悲というものがあるなら、それはどこにあるのですか?私は何年も祈り続けています。なぜ私は貧しいのです?一度も祈りを捧げたこともなく、一度も寺院に、教会に、ユダヤ教会に行ったことのない人々が金持ちになっているではないですか!私は正直で、人間の弱さの許す限り誠実になろうとしています。ところが、その私は貧しく失敗者で無名のままです・・そして、ケチで狡猾で権力と金の為なら何でもやる人々が成功しています。牧師は、神は公正だと言い続けています。その公正さは、一体どこにあるのですか?」
このようなことが、あなたの無意識の中に残っている。神を大いに怒らせてしまうことになるから、口に出しては言わないだろうが・・ジグムント・フロイトは、時には実に偉大な洞察に至ったものだ。彼は確かに天才だ。だが残念なことに、この種の人々は決して瞑想に触れることがない。そうなっていれば、世界に多大な功績を残していたことだろう。それでも自らの天才ゆえに、彼らは一瞥と洞察を得ることが出来た。
フロイトは「人は支配的な父親、あまりに独裁的な父親を、人類の始まりのどこかで殺しているから、神を父として崇拝する」と言っている。多くの王が自分の息子に殺害されたというのは、よく知られた事実だ。王はいつまでも長生きしていた。そして息子は次第に年老いて、自分が王になるまで生き長らえることが出来なくなって来た。唯一残されている可能性は、父親の死だ。多くの王が、自分の父親を監禁して王位を継承していた。なぜなら、少なくとも自分が王位を楽しむ時間が残っている間に、父親が自然に死を迎えるのは不可能のように思えたからだ。自分が75歳、80歳になってから、父親が死んで王位を継承しても一体何になる?1,2年以内に、自分もあの世に逝ってしまうではないか。
それらが事実であったという可能性はあるが、歴史的な記録は残っていない。ゆえに歴史家達は、この洞察を却下してしまった。だが私は歴史家などではない。私にとって歴史は、単なるたわごとだ。私は神を、心理学的な事実として捉える。ジグムント・フロイトは「過去のどこかで、人は父親を殺さなければならなかった。だから、自分が行ったことに罪を感じている」と言っている。そしてその罪の意識から、人は先祖、父親、年長者、年配の人々を崇拝し始めた。これら全ての尊敬の念は、人の心に根づいた罪の意識から生じている。
人は父としての神を創造し、父を追悼して寺院を建立し、彫刻を作り、牧師が祈り、崇拝者が礼拝している。ジグムント・フロイトは、心理的に正しいと私は思っている。さもなければ、寺院も、教会も、モスクもなく、神もなかったに違いない。人は祈りを捧げる対象、不平を言うことの出来る対象、全ての責任を負わせることの出来る対象を必要としていた。
神が存在していたら、間違いなく暗殺されていただろう・・彼の存在は、完全に我慢のならないものになっていたに違いない。だが幸運にも神は存在しないから、誰も彼を暗殺することは出来ない。しかし残念なことに、人は暗殺することも対話することも出来ない、仮説の神を創造してしまった。それは単なる仮説だが、それによって人々は、罪の意識から逃れることが出来る。
聖職者はその恩恵を受けている。彼は、その仮説を生き長らえさせる。彼はその仮説を擁護する。なぜなら人々の罪の意識を打ち消す為に、神に貢がれた全ての贈り物が自分の懐に転がり込むからだ。だから彼の仕事は、人々にさらに罪の意識を抱かせること以外には何もない。これは、非常に巧妙な構造を持った商売だ。全てに対して、あらゆる快楽に対して、人々に罪の意識を抱かせるということは・・
罪の意識こそが、宗教の全ての基盤だ。聖職者は、あなた方が有罪であることを必要としている。そして罪ゆえに、あなたは神を必要とする・・誰があなたを許す?あなたの祈りとは一体何だろう?「我らを許し給え。我らは罪人です。そして、あなた様の慈悲は絶大です。父よ、我らの罪を許し給え」・・そして誰ひとり、あなたに耳を傾けている者はいない。
神が単なる仮説であるから、神と交流することは不可能だ。どこにも神を見つけることは出来ない。「神が存在していないとすれば、我々が自分で創造しなければならない」と言ったアルバート・カミュは正しい。それこそ、私達が行ったことだ。私達は神を創造してしまった。神が存在しているとしたら、私達は神を抹殺しなければならない。
実存的な問題は、私が今語っていたこと・・自分が値しない、という感覚だ。誰ひとり値する者はいない、というのは正しい。私達は、全てを何の理由もなく受け取っている。存在に感謝するということが、唯一純粋な宗教だ。キリスト教的、ヒンドゥ教的、イスラム教的など・・そこには、いかなる形容詞も必要ない。それはただ感謝・・それだけだ。
あなたは正しい道を辿っている。ただその値しないという感覚で、止まってしまってはならない。それはまだコインの片面だ。コインのもう一方の面は、感謝だ。前者は否定的な面、そして後者は肯定的な面だ。憶えておくがいい。常に肯定的・・ポジティブなものと共に動いて行きなさい。そうすれば道を外れることはない。
あなたが光、喜び、至福、歌、ダンスによって爆発する時、究極の肯定が訪れる。これら全ては、あなたの内側にさらに多くの感謝を生み出す。そしてあなたは、祈りそのものになる。
OSHO、The Invitation #22 より抜粋