OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

146.人生は聖なる贈り物

<OSHOとのダルシャン(面談)より>       (1967年7月30日) 

OSHO・・・(サリラと一緒に来ていた男性に)ハロー! 君は何だい? 

ジャック・・・どこから始めたらいいか分かりません。 

OSHO・・・サニヤスから始めなさい! 

ジャック・・・はい。 

OSHO・・・ふむ、目を閉じなさい。 ・・・・Good。ジャックはいなくなった。 
(彼の名前を見せようと彼の方に身を乗り出して)スワミ・デヴァ・プラサダム。 

デヴァは聖なるものを意味し、プラサダムは贈り物を意味する。聖なる贈り物・・・。そして、人は人生をそのように見ようとするべきなのだ。聖なる贈り物として・・・。それは途方もない値打ちがある。「いる」ということだけで、たとえようのない祝福だ。 

ところが我々の不平、不満を持ったマインドや、怨みつらみを持ったマインドの為に、我々は決して、もうすでにそこにある美しさを見ることが出来ない。我々は決して、すでに自分達に手渡されているその宝物を見ることが出来ないのだ。小さなものごとに否定的になってばかりいる間に、大変な生の祝福が我々の脇をあっさりと通り過ぎて行く。それを見ようとしてごらん。 

トラブルというのはある。しかし、そんなものは生が差し出してくれるその美しさに比べたら無に等しい。世の中には不安というものもある・・・。私は全てがバラ色だと言っている訳じゃない。そこには刺もある。それは取るに足らないものだ。そして実際のところ、それらはバラをいっそう美しくする。それらは手を貸す。それらのコントラストによって、生をいっそう際立たせてくれるのだ。 

世の中には憎しみがあり、怒りがあり、嫉妬がある。しかし、それらはみな愛のコントラストとして作用する。そういうものがなかったら、愛は不可能だろう。世の中には死がある。悲惨がある。病気がある。が、それらはみな生を可能にしてくれるのだ。だから、常に積極的なものを見るがいい。それがこの名前の意味なのだ。 

もしあなたが積極的なものの方を見始めれば、消極的なものは意味を失ってしまう。というのも、何を見るにしろ我々は自分が見るものにエネルギーを注ぐようになっているからだ。そうすると、そのものがもっともっと我々を取り巻くようになる。もし間違ったものに目を向ければ、あなたは間違ったものに食いぶちをあてがっていることになる。注意というのは食べ物だ。ごく微小な食べ物だ。とても生命のある食べ物だ。 

からして、間違ったものに注意を向けないことだ。ものごとの暗い面に注意を向けないこと。それはそこにある。それを受け容れなさい。誰もそれを否定している訳じゃない。が、それに多過ぎる注意を向けて何の意味がある?それではちょっと病的だ。それは一種の倒錯なのだ。しかし、誰も彼もそれをやっている。我々はそうやって神を逃し続けるのだ。 

神はあなたの目が絶対的なまでに積極的な時、あなたの目の中に消極性の一点の染みもない時に初めて可能となる。不意にあなたの内にも外にも彼がいる。これこそ私が「準備」と呼ぶものに他ならない。目から完全に染みをなくすこと・・・。そして消極性というのは染みの最たるものなのだ。 

何が起こるにつけても、それを正しく受け取りなさい。たとえもしそれが痛みを与えるとしても、それはそこになければならないのだということを覚えておきなさい。それがなければ快感は不可能なのだから・・・。それを受け容れなさい。それがプラサダムの意味するところだ。それは最もビューティフルな言葉のひとつだ。 

インドの聖者のところへ行くと、プラサードといって何かくれる。ちょっとした甘い物か果物だ。私は何の菓子も何の果物もあげはしない。私はあなた自身に「あなた」をあげる。それが私のプラサードなのだ。 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より